つるちゃんからの手紙12月号(令和3年12月号)
 

「100年カレンダー」という本を買ってみた。この本の巻末には1930年~2131年(200年分)のカレンダーが付いている。なぜ、これを買ったのかというと理由は二つある。ひとつは今年、大学の同級生が2人他界した。学部は違ったけれど一人は写真部の部員で、もう一人はクラスメートだった。2人とも病気が原因であった。コロナ禍であったため、ラインでグループをつくって、思い出の写真を貼り付けて追悼した。

もう一つのきっかけは、県立高校の教職員の方々へ講演させていただいたことがきっかけだった。これまで歯科医院や経済団体や企業で話をすることが多かったが、学校の先生を相手に話をすることは初めてであった。母(故人)が高校の教諭だったので、なにか恩返しをしたいと思って、いつもの講演とは違う内容にした。教職としての母親が子供の目から見てどういう存在であったのかということも話をさせていただいた。すると、多くの先生から「感動しました」「聴いてよかったです」とありがたい言葉をいただいた。

話はもどるが、「100年カレンダー」には自分の誕生日に〇を付けるということから始まる。52年前(1969年)の誕生日に〇をいれた。その日は土曜日だった。母は当時、諫早から長崎北高校まで毎日車で通勤していた。クルマはエアコンもなく、白い煙を吐く2ストの軽自動車であった。片道30キロはあったという。母は私を産む前に2度流産していた。身ごもったとき産婦人科の医者に「今度こそ産みたい」と言ったら「長崎まで毎日車で通うなんてことするからだ」と諭され、長崎北高校のすぐ近くにアパートを借り、父親がそこから諫早の仕事先まで通う事にした。「そうやってお前は産まれたんだよ」と聴いたことを思い出した。私がようやく生まれたと思ったら、今度は教員不足であったため母はわずか2か月後には教壇に立った。父兄懇談会があり、そこである保護者から、「先生、お子さん産んだばかりなのにもう仕事している、お子さんはどうしているの?」と涙をこぼしながら言われたそうだ。「100年カレンダー」の誕生日に〇をいれた瞬間、思わず胸がいっぱいになった。そうやって授かった命なので、私は100歳までは元気で生きたいと思っている。老いは必ずやってくる。それは承知している。自分の身体の機能として、ずっと完璧である保証はないが、医学の進歩やこれからの心がけ次第では、健康な時間を多くしていくことはできるはずだ。目標は日野原重明先生。100歳を越えていても2~3年先までのスケジュールが入っていたという。その2069年まであと48年しかない。ここまでがすぐだったから、この後の人生もあっと言う間に違いない。そう思ったら、あと何回、あの友人と会えるだろう。あと何回、父親と話せるだろうか。あと何回、家族で旅行に行けるだろうか。ということが意識することができる。

仕事だってそうだ。今年一番力をいれたのは、医院の増改築。新型コロナの影響もあって決意したことだが、あらたな医療機器(プライムスキャン、ウォッシャーディスインフェクターや口腔外バキューム)を導入したこと、換気を強化し増床したことで、感染においては万全を尽くすことができた。結果、働く人たちがより快適に仕事ができるようになった。さらに歯科診療の予約が各段に取りやすくなり、患者さんにも気持ちよくメンテナンスを受けることができるようになった。診療チェアが増えたこともあり、来年4月からは2人の歯科医師を招聘することになった。今ある知識と技能を私より若い歯科医師に継承していくことが私の課題である。技能なんて、学んだからと言ってすぐ手につくものではない。立派な歯科医師をひとり育てるとすると、莫大な時間とエネルギーがいる。それでも私は、それをやらずに老いる事は到底できない。一度しかない人生を「どう生きるか」。100年カレンダーに印を入れてようやく自分の人生の価値に気づいた次第である。あっという間に一年が過ぎようとしている。少し遅かったかもしれないけれど、今年もいろいろな経験をさせてもらえたのも、周りの支えがあってのことだと思っている。

 

追記 早いもので、2021年も師走となりました。おかげ様で、良い一年を過ごすことができました。ありがとうございました。皆様、どうぞ良いお歳をお迎えください。