つるちゃんからの手紙6月号 (令和6年6月号)
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
技術っていうのは、良い結果が出るようになるまで追求していくわけなのですが、本当のところは自分でもちゃんとできているかもよくわかりません。ある程度できるようになると、自分の実力が知りたくなるというものです。学会やスタディグループに所属し、症例を完成させて発表します。すると、「ここはもっとこうするべきだ」「詰めが甘い」などと厳しい指摘を受けるのです。自分は完璧だと思ったものにケチを付けられるわけですから腹が立つ。そしてまた頑張って症例を仕上げて持っていくのです。すると、また文句を言われる。「もうやめようかな」と何度思ったことか。でも思いとどまって、また頑張る。大体それを繰り返して10年も続けたら、その分野においては、そこそこ名が知られるようになってきて「オレもうまくなったかな」と勘違いをするのです。するとまた大先生から叱られるのです。「君だったらもっとうまくできるだろうが」と。結構堪えるわけですが、そこで負けたくないものだから、次はもう開き直る。すると気が付くのです。雑念があったことに。心の中に少しでも認められたいなどという欲があるとすぐに見破られてしまうのです。そこで初心にもどる。そこには透明な気持ちしかなくって、雑念を捨て淡々と治療に励む。心を無にして最善を尽くす。一日が終わると身も心もヘトヘトになる。これをまた10年くらい続けていく。そうすると、もう誰もが簡単に真似ができない領域へ少しずつ足を踏み入れることになっていくのです。そうこうしているうちに、今度は公の場で認められたり、賞を取ったりする。すると不思議なことに、もっとうまくいかなくなるのです。今度は身の上に災いが次々と降りかかってくるのです。貧乏クジを引いたり、濡れ衣をきせられたり、周りとちっともうまくいかない。ギクシャクする。少し自信を持つと人は勘違いをする。「驕り」や「うぬぼれ」が少しでもあるとダメ。どんなに腕が立っても「素直さ」や「謙虚な気持ち」がないとどうにもならないことを、やっとここで思い知るわけです。
先月東京に行きました。尊敬する師匠のライブオペを見せて頂きました。息を吞むほどの大胆かつ繊細。鮮やかな手つきでした。以前見せて頂いた時には見えていなかったことがたくさんありましたが、今はその詳細が理解できようになっていました。次はこうする。その時のポジションはこの位置、測定値はこれくらい、見ているうちになぜかしらないけれど、体の中がカッと熱くなり感動が襲ってきました。師匠は70歳をこえておられます。一流に触れると、自らの力を知ることができます。自分はまだまだ道半ばであるということに気が付きます。時々、無駄な苦労をしないで簡単に、お手軽に技術を付けたいのでどうしたらいいかと相談をうけることもあります。なにか近道があるはずだと迫られたこともあります。いつの時代になっても活きた技術を身に付けたかったら直接そこに行き、話を聴き、その目で見て、その手で触れるのが一番早いものです。サル真似は薄っぺらいけど本物と呼ばれる技術は見ればわかります。それは思わず拝んでしまいたいほど美しいものです。それは直感でわかるものです。私は素晴らしい治療技術に巡りあったことに感謝をしていますし、毎日が修業と思って診療しています。