つるちゃんからの手紙9月号(令和4年9月号)
いままでずっと私がライフワークとして取り組んでいる分野があります。それはインプラント治療です。インプラントは「第三の歯」と呼ばれています。第一の歯は乳歯、第二の歯が永久歯、そして第三の歯がインプラントと言うわけなのです。
歯を失ったら、他の健康な歯を削ってブリッジにするか、義歯(入れ歯)にするという方法が一般的ですが、インプラントはチタンという金属を顎の骨に埋め込み、そこに上部構造という歯によく似たものを接合させて、人のかみ合わせをサポートする画期的な歯科治療です。今でこそ誰にでも知られるような治療法となりましたが、日本に入ってきてまだ30年くらいなのです。インプラント治療は毎年のように新しい治療方法やコンポーネントが発売され、進化が止まることはありません。むしろ技術は次々と革新を繰り返しています。
1952年、スウェーデンのブローネマルクという整形外科医が、ウサギの脛にチタン製の生体顕微鏡を取り付け微少循環の観察実験中に、その器具を外そうとした際チタンと骨がくっつき外せなくなったことが、インプラントのはじまりです。その後、研究を続け1965年に現在主流となる世界初の純チタンによるデンタルインプラントシステムの臨床応用を開始しました。最初の患者は先天性歯牙欠損に悩むヨスタ・ラーソンという名前の34歳の男性で、彼は上下顎にデンタルインプラント手術を行い、そのインプラントはその後彼が亡くなるまで41年間問題なく機能したという話は有名です。1989年ころから、この技術は急速に世界に普及していきました。
28年前、私が大学5年生の時。そのスウェーデンイエテボリ大学のブローネマルク博士のところに単身留学して、インプラントを学んできた小宮山彌太郎先生の講義を聴き、感動したことを今でもよく覚えています。居ても立っても居られなくなり、アメリカのUCLAロサンゼルス大学カルフォルニア校に冬休みを利用し見学に行ったのです。
大学を卒業して歯科医師国家試験に合格したらすぐに60万円のお金を祖母から借りて京都にインプラント実習コースに参加しました。卒後一年目でコースに参加している人など誰もおらず、ベテラン先生ばかりの中で私は浮きまくっていました。それから多くの壁にぶち当たりながら勉強と体験を重ねていきました。
そして、本格的にインプラント治療を始めたのが2011年。私がこの愛野町に移転した年です。このころになると、それまでの腫れる、痛い、危険というインプラント治療も、外科的侵襲が少なく、安全で予知性が高い治療方法へと進化を遂げていました。
インプラントは一本ずつ滅菌され箱に入っています。その中には2枚の製品ロット番号を記したシールが入っています。それぞれを、カルテとサビリティノートに貼付します。私が開業してからのインプラントを数えてみたら1800本を超えていました。1800本もの歯のかみ合わせを創ったと考えると感慨深いものがありますが、同時に大きな責任を背負っていることを実感しています。
歯科医師になって26年が経ちましたが仕事のことを考える時は寝ても覚めてもインプラント治療のことばかり。数えきれないほどのたくさんのコースやセミナー、学会に参加してきました。最近は若い歯科医師に向けての講義や、実習コースのお手伝いを行うこともありますが、それでもまだ学ぶことはたくさんあります。
なにがそうさせるのかというのは、やはり、「できない」という言葉を口にしたくないからです。私のインプラント治療は、保存ができなくなった歯を抜歯し、そこにインプラントを埋入し、その日のうちに仮歯を作り、荷重を加えるというものです。まだまだ一般的でではありません。即時荷重研究会というスタディグループがあり、私もそこで学んでいます。この研究会が、最も日本のインプラントをリードしていると私は思います。
斬新的なデジタル技術をつなぎ合わせて、より患者さんに喜んでもらえるようなインプラント治療を実現しています。これが普及すると世界の歯科治療が変わります。故スティーブンジョブズはこういいました。「最高のモノは真に情熱をもった人たちからのみ、生まれるんだ」。まさに即時荷重研究会はそういった人たちの集まりです。新しいものを生み出す力、それを広めていくことがこれからのなすべきことだと思っています。