つるちゃんからの手紙5月号(令和3年5月号)
 

俺のカーチャンは高校の体育の教師をしていた。運動部の顧問をしていたので、朝早く家を出て行ったら夜遅くまで帰って来なかった。休みの日も試合の引率だといって家にいたことなんてほとんどなかった。

幼いころは、ばあちゃんに育てられた。授業参観も遠足も散髪も、全部ばあちゃんだった。風邪ひいて熱が出ても、ばあちゃんだった。夕食も、弁当もばあちゃんが作ってくれた。ばあちゃんは好きだったけど、やっぱりカーチャンがよかった。

小学生のころ、カーチャンの学校が定期試験の期間にはいると早く帰ってきた。俺は嬉しくてうれしくて、大きな声で「ただいま!」と言ってカーチャンと一緒に過ごした。覚えている範囲では、カーチャンが来てくれたのは小学校の入学式と大学の卒業式の2回だった。仕方ないよね。教師だったから。当時は忙しくて当たり前だったから。

大学を卒業して俺は歯科医になった。そして、運よく開業することができた。たくさん借金したので、俺は死ぬ気で頑張った。

カーチャンは退職後しばらくして患者として来てくれた。カーチャンの歯は思った以上にボロボロになっていた。手遅れだったので、俺はカーチャンの歯を抜いた。ところが、抜いたところの出血が全然止まらない。焦って血圧を測ったら、信じられないくらい高かった。それでもなんとか止血した。どうもおかしいと思ってカーチャンにきいたら、ここ数年間、健康診断も受けてなく、病気がないというのも嘘だった。

嫌がるカーチャンを内科に連れて行って採血してもらった。案の定、糖尿病だった。それから何をやってももうダメで、視力も一気に衰えていった。さらに、胃がんがみつかった。これももう、かなり進んでいて、助からないと医者から告げられた。頭が真っ白になった。ここじゃ何もできないからと、ホスピスに転院した。

考えてみたら、大人になってからカーチャンと一緒に過ごした時間というものがなかった。だから、病床で、いろんな話をした。俺を産む前に2回も流産したこと。原因は長距離通勤と過労だったので、俺を身ごもったらすぐに勤務先(長崎北高)の近くにアパート借りて、オヤジと二人で移り住んだ。俺が産まれたときは本当にうれしかったそうだ。でも、当時は教員不足で、俺を産んだ後もわずか3か月で仕事に復帰しなければならなかった。40代のころ、仕事が忙しくてうつ病になって辛かったこと。いろいろあったけど、3人の子育てが楽しかったこと。そんな昔の思い出話をしてくれた。

最初は恥ずかしかったけど、カーチャンの足の裏やふくらはぎを揉んでやるとカーチャンは「ああー気持ちよかねえ」って言ってくれた。「あんたの作ってくれた入れ歯は最高ばい。なんでん食べらるっけんね」とカーチャンは何度も俺に言う。あの歯を抜いた後、おれは、自分の技術をすべてかけ、最高の材料を使って、日本一の歯科技工士さんに頼み込んでカーチャンの入れ歯をつくった。

病状が進行し、痛みが強くなってからは麻薬性鎮痛剤の使用承諾書にサインした。それからはカーチャン、ずっと朝も夜も寝たまま。もうマッサージしても話しかけても目を開けてくれない。

でも、ある晩、眼をパッと開いてこういった。「あんたにはさみしか思いばかりさせたね、ごめんね」もう胸からガーッと思いが込み上げてきてね、その場で泣いたね。カーチャンの足の裏はヒビだらけで、石みたいに硬くなっていた。手も信じられないくらいカサカサで皺だらけになっていて、ああーこの手で俺を育ててくれたんだって。この足で踏ん張ってくれたんだって。

俺も「ありがとう、産んでくれてありがとう」って必死で言ったけど、その時はまた眠ってしまっていた。

次の日、バイタルサインが急に落ちて日が回ったころカーチャンは息を引き取った。まだ68歳だった。

妻が泣きながら、カーチャンに化粧してくれた。葬式の日には花が会場に入りきれないくらい届き、信じられないほど多くの人が葬儀に訪れた。いい歳したおじちゃんやおばちゃんが、カーチャンの顔を見てオイオイ泣いている。「先生には就職を世話してもらった」「仲人をしてもらった」「近所にスーパーがあるのにわざわざ私の店までお刺身を買いにきてくれた」「クリスマスケーキを毎年買ってくれた」「ミシン持ってるのにわざわざ私から買ってくれた」など、教え子がひっきりなしに弔問に訪れ、俺とオヤジにそんな話ばかりするもんだから、葬式が終わるころには二人とも顔が腫れあがるまで涙を流した。


 

今、俺の歯科医院はたくさんの女性のスタッフが働いている。結婚し子供ができたら、なるべく早く仕事をきりあげて保育園に迎えに行ってもらうことにしている。子供の体調が悪いとすぐに休んでもらう。そもそも子供が熱を出すのは母親と一緒にいたいからなんだよ、と教える。お遊戯会も、遠足も授業参観も絶対に行ってもらう。そのために有給休暇があるんだよ、って言ってね。

だって、スタッフの子供がグレたら困るだろ。俺がそうだったから、仕事のせいで子供にさみしい思いだけはしてほしくないという気持ちが強い。仕事なんてどうにでもなる。でも子供のさみしい気持ちは、母親以外に埋めることはできない。

俺はスタッフだけでなくて、そのスタッフの子供の人生も預かっているんだと肝に命じて、働いている。それは全部カーチャンのおかげだと思っている。カーチャンが亡くなってもう10年になるけど、5月の命日になると、そのことをいつも思い出す。