つるちゃんからの手紙 2月号(平成31年2月号)
 

「私の仕事観」

突然ですが、あなたが歯医者さんを初めて訪れたのはいつだったか、覚えていますか。

私は小学校4年生の時。祖母に連れられて行きました。私はすごく歯の治療が怖くて不安でたまりませんでした。口の中にドリルを入れられ、すごい勢いで水が出てきて、ギュワーンという音と共に歯を削られました。とても怖かったけれど、それから何度も通院し、ようやく治療が終わりました。 

そして、次に歯医者さんに行ったのは、高校生になってから。歯が痛んだので歯科医院にいったところ、奥歯の永久歯を一本抜歯されました。当時の選択枝はブリッジか、義歯(入れ歯)しかありませんでした。おそらく健康であった抜いた歯の隣の歯を容赦なく削られたことを覚えています。そのときも何度も治療に通いました。ようやく、治療が終わって奥歯で食べることができるようになりました。

次は歯学部2年生の時。キャラメルを食べたら詰め物(メタルインレー)が取れました。

そのときは歯学部病院に水泳部の先輩が勤務していましたので、その先生に診てもらいました。そして、ここもあそこも悪くなっているからと、またいろいろと治療をしてもらいました。これで一安心。やれやれ、やっと治療は終わった、そう思いました。

しかし、大学6年生の時、高校生の時に作ったブリッジが外れました。この時は大学病院の中でもすごくうまいと評判の先生にお願いして、ブリッジを作っていただきました。その先輩は期待以上の腕前で、鋳造冠としては、最高のクリティで製作していただきました。しかし、鋳造冠というものは、必ず製作の過程で、金属の内部に歪みを生じるので、そこから齲蝕(虫歯)になりやすいので、一生持つわけはありません。大体10年持つことができてラッキーです。だから日ごろのブラッシングや清掃には注意が必要です。そのころには、そういった知識がありましたので、そのブリッジの箇所だけは定期的にチェックをしておりました。それから、23年が経過しました。

昨年の年末にそのブリッジに違和感があったので副院長の願能先生に診てもらったところ、すでに一部が脱離しているとのことでしたので、自分で自分の治療計画をたてました。願能先生にお願いして、ブリッジの支えになる歯(支台歯といいます)にCEREC治療をしてもらいました。

そして、高校1年生の時に、抜歯された欠損部位には、インプラントを埋入することを決心しました。せっかくインプラントを入れるので、若い歯科医師の先生方に声をかけて、大阪の御高名な先生に特別にお願いして、ライブオペをやってもらうことにしました。

 ここまで、読んでいただいて、あることに気が付いた人もいるでしょう。そうなのです。歯は治療を繰り返すごとに治療の規模が大きくなっていく、そして治療の難易度も上がっていくということです。保険診療で行った金属の詰め物が問題なく過ごせる耐用年数は7年程度ということがわかってきましたが、治療は何度もくりかえせるものではありません。ある研究では、5回程度の歯の治療の繰り返しが歯の限界と言われています。

小さな虫歯ができて歯科医院に行き、歯を少し削り、そこに段差ができると、再び虫歯になり、そしてまた歯は削られます。その繰り返しの末、歯は寿命を迎えるのです。果たしてそれは治療といえるのでしょうか。歯科医療の本来の役割とは歯を削ることではなく歯を守ることではないのでしょうか。それでも、治療がどうしても必要になったら、再発しないように、その人に応じた最善の歯科治療方法を提供することこそが私たち歯科医の本来の仕事の姿であるように私は考えます。もちろん、歯を失ってしまった人にとっても、その機能を回復するための治療技術においても最善を尽くすべきです。日本は世界に類を見ないほどの高齢化社会に突入していきます。人が生きていくうえで最後に残された生きる楽しみは「食べること」です。つまり、「食べること」は「生きること」そのものを意味し、それを豊かにしていくことができるように私は日々研鑽していきたいと思います。