つるちゃんからの手紙9月号(令和6年9月号)
大学受験がうまくいかず浪人したことがあります。東京の医歯薬系に強いという予備校の寮に入りました。3畳一間、トイレと風呂は共同。古い木造2階建ての寮で私は過ごすことになりました。目の前が真っ暗で、予備校に通ってどんなに勉強していても不安が大きく、もう頑張ってダメじゃないのか、自分はできないのではないか、ということが頭の中にぐるぐると渦巻き始めました。予備校に2か月も通うと友達もできず、模擬試験の成績もパッとしないで、すっかり気がめいってしまいました。
1990年(平成2年)のことでした。当時はバブル景気と呼ばれていて都内ではマハラジャというディスコが大ブームでした。街は毎日がパレードのようで着飾った若者と金曜日の夜になると多くの若者がスキー用具を持って首都圏を脱出する風景を目にしました。BMWというと高級車ですが、「六本木のカローラ」と言われるくらいたくさん見かけました。世の中の景気は絶好調で、どこに行っても人がいっぱいで、私の友人はボーナスを新卒でウン十万円もらったと自慢していました。
そんな時、求人を偶然目にしました。カメラマンのアルバイトでした。日給がとてもよかったのです。もう受験勉強をするより、自分の好きな道に進むのもいいかなと思い、面接を受けたらあっさりと合格しました。来週から入ってくれと言われました。ホテル専属の結婚披露宴のスナップ写真を撮影し、それを販売するのが業務です。今のようにデジタルカメラやスマホが無いので、フィルムカメラで撮影するのです。36枚撮りのフジカラーHR200というカラーフィルムを2本渡され、撮影するシーンとポイントをすべて指示されていました。
結婚式の言葉使いや披露宴でのマナーの教育をうけました。結婚式はやり直しがきかないわけですから、とても緊張しました。高校時代は写真部でしたので、最初は失敗もしましたが、すぐにその仕事に慣れて、たくさんの結婚式の撮影を任されるようになりました。一日3組の結婚式に入ったこともあります。すぐに周りのホテルスタッフとも仲良くなり、楽しくなってきました。土曜、日曜、祝日だけの仕事だったので、予備校に通いながら続けることができましたが、結局は稼いだお金でそこでできた友人たちと飲み歩き、DCブランドという服を買うようになりました。
もう受験なんかしないでプロのカメラマンになるのも悪くないなと思い始めていました。カメラマンの主任は青木さんといって50代の人でした。撮影にはとても厳しい人でしたが、すごく面倒見のいい人で、プロとしての仕事への姿勢や、そこで働くスタッフにはいつも気を配ってくれて、尊敬している人でした。当時は仏滅と休日が重なると、結婚式は無く、内勤といって自分が撮影した写真をアルバムに貼る作業をしていた時でした。自分の分のアルバムを完成し、帰ろうとしたときに青木さんが良かったら飯でも行こうと誘ってくれました。一緒にビールで乾杯し、青木さんに「いままで大学に行きたいと思っていたけどカメラマンに転向しようと思っているんですよ」と言ったのです。驚いた顔で、「どうして?」っていわれました。「受験勉強は、もうイヤになりました。大学はもうあきらめようと思っています。カメラマンならやっていけると思うんです」と。すると青木さんの目つきが急に厳しくなり、「やめとけ。カメラマンで食べていくのはすごく難しいことなんだ。若い時はいい、写真がうまい奴はごまんといる。今はたまたま景気がいいだけだ。この景気は異常だ。これが長く続くはずはない。だから君は大学へ行くんだ。」
大きな声だったので周りの客も驚いてこちらを見ています。青木さんはキレた様子でした。酔いがすぐに覚めました。結局カメラマンのバイトは半年ほどで辞め、また受験勉強に没頭しました。今度は必死でした。その後、大学に無事合格し青木さんに挨拶に行きました。満面の笑みで「おめでとう!よく頑張ったな!」といって目に涙を浮かべて握手してくれました。
この経験で一つ学んだことがあります。それは、自分に甘い声をかけてくれる人、褒めてくれる人より、耳が痛い事をあえて言ってくれる人こそ本当の味方だったのです。きっと、あの時の私の安直な考えや芯のない姿勢をみて青木さんは私に喝を入れてくれたのではないでしょうか。「こんな調子じゃこの若者は何をやってもダメだ」きっとそう感じていたのだと思います。私の青木さんとの出会いはきっと神様の見えない導きだったのではないかと思います。あの時に青木さんが叱ってくれて本当によかったと今は思っています。