つるちゃんからの手紙10月号(令和4年10月号)
 

「親知らず」は、智歯、8番、または第3大臼歯と言って、最も口の奥(後方)に位置している。上下右左すべて4本生えている人もいれば、生えてこない人もいる。他の歯と同様にまっすぐに生えてくれるということは極めて少なく、傾斜や、埋伏していることが多い。歯科治療の中でも、「親知らず」の抜歯は大変難しい分野で、大学病院の口腔外科などに抜歯を依頼することもある。

私が、はじめて自分の「親知らず」を抜いてもらったのは、大学6年生の院内実習(ポリクリという)の時であった。「親知らず」があるのはわかっていたのだが、同級生の抜歯実習のためにと、とっておいたのだ。それは、かなり大きな「親知らず」で横を向いて骨の中に完全に埋伏していた。いわゆる「難症例」だ。ベテランの指導医が同級生に指示しながら抜歯を行うわけだが、うまくいかず指導医が抜歯してくれた。気が付いたら2時間45分もかかっていた、途中何度も局所麻酔が切れ、そのたびに追加された。抜歯そのものは、そんなに痛くなかったが、顎がとにかく疲れた。その翌日から口が開かないほど顎の周りが腫れ、1週間ほどは鎮痛剤がないと痛みがとれなかった。

卒業して大学病院の口腔外科に入局し、たくさんの「親知らず」を抜歯した。その時に気をつけたのが、とにかく痛まないように、素早く丁寧に抜歯をしてあげることだった。もちろん、これは自分が大学6年の時の経験があったからだ。痛く、つらい思いを患者さんにしてほしくないという気持ちの表れだった。当時「親知らず」を抜歯したら、腫れて、痛んであたりまえ、という風潮があったが、私は手技が上手い先輩に頼んで鍛えてもらったことと、感染防止を徹底していたので、自分のようなつらい体験をした人は比較的少なかったように思う。これをずっと続けていくと同業の歯科医師の中でクチコミとなった。おかげで、開業医からの紹介がとても増えた。

その後、私は大学病院を辞め、佐賀県の地方にある歯科医院の分院長を任された。ある日、自分の「親知らず」が痛んだ。6年生の時につらい思いをしてからは、必死でブラッシングして、なんとか保存していた別の「親知らず」である。当時その医院に赴任したばかりで、一番近い歯科医院に行こうとしても車を小一時間は走らせないといけないし、毎日が忙しかったため、とても医院を休むことなんてできなかった。「どうしようか、」と私は途方に暮れた。

痛みは日に日に増してきた。レントゲンを何度も見直したが、自分以外の歯科医がこれを簡単に抜歯できるとは思えなかった。しばらく考えていたが、私は決心した。局所麻酔を自分の「親知らず」の周囲に注射した。痛みがあっという間に取れていく。

そして私の顎は完全にマヒした。次は前から一本一本ずつ歯を数えていく。そして最も奥にある歯を指で蝕知した。これだ!私はそこにヘーベルという抜歯器具をかけた。自分の頭を硬い柱に押し付けて、手探りで近心頬側にある歯根膜腔にその先端を挿入し、そのまま楔効果を得るために力を思いっきりかけた。その時にしっかりと一本手前の歯を保持していないと、「親知らず」ではなく、手前の歯を脱臼してしまうため、細心の注意が必要だった。自分の指が3本口に入っているので、息苦しい。次の瞬間「親知らず」は動揺した。「やったぞ」と私は心の中でつぶやいた。そうっと口の中から指を出し、抜歯鉗子を用いて無事「親知らず」を抜歯することができた。やればできるものだと思ったが、これは手塚治が書いた漫画「ブラックジャック」そのもの。親知らずの傷口は予後も良く、難なく治癒した。今考えると、無茶苦茶なことをしたものだと思っている。

歯科医である自分が歯の治療を受ける、抜歯を経験することはとても大事だと思っている。患者さんの気持ちがとても良くわかる。これは事前に言っておいたほうがいいなと思うものは全部注意書きを書いて私は患者さんに持たせることにしている。本当につらい思いだけはしてほしくないからだ。歯科治療行為は不可逆的なことのほうが多い。失敗は許されないし、同業がレントゲンを一目見ただけで、どんな治療をしたのかすぐにわかる。だから、心を無にして治療に打ち込む覚悟が必要だ。故下川公一先生の言葉、「医者は命を救う事ができる、歯医者は患者の人生を救うことができる」自らの仕事の意義、使命を何度も何度も確認しながら、これからも謙虚に腕を磨き続けようと思っている。