つるちゃんからの手紙8月号(令和6年8月号)
「軽トラックに乗るワケ」
昨年の冬の話。朝、いってきます、と言ったら、父の返事がなかった。瞳孔は散大し、すでに心肺停止状態であった。CPRを続けながら救急病院に搬送したがダメだった。享年85歳だった。エンゼルセットというものを購入し、看護師さんが霊安室で父をキレイにしてくれた。葬儀社に電話をして、棺に父を入れた。葬儀屋さんはすぐに現れ、たった一人で手早く棺を車内へ設置した。病院の地下から外にでるとお日様が眩しかった。抜けるような青空で、風もなく、父の死がまるで嘘のような、穏やかな日だった。
妻が運転手さんにお願いして市役所の前を通ってもらった。父は諌早市役所で定年まで勤めあげ、そこで働いていたことが誇りだった。海外に住む妹に電話をしたら、何が何でも帰ってくるという。お通夜と葬儀の日程を調整した。
納棺師という方が来て父に着て欲しい服を持ってきてほしいとのことだった。急いで実家に行って父が気に入っていた服を探した。最期に着たいものは何だろうと思いを巡らせた。父が退職の日に着ていたグレーのスーツとお気に入りのネクタイを見つけた。妻はそのころ、遺影にする写真を探していた。ちょうど旅行での写真があった。湯布院の金鱗湖で孫たちに囲まれ、ほろ酔い気分のいい笑顔が見つかった。
父はお酒が好きだった。若い頃から休みの日は畑の草刈りや田んぼの手入れをしたら、ビールを飲んで気持ちよく昼寝をしていたことを思い出す。13年前に母が他界してからというもの足腰が急に弱くなったが、介護職員の方々のおかげでずっと自宅で暮らすことができた。高血圧や糖尿病もすっかり治り、認知症にもならなかった。ぴんぴんころり。父は幸せな生涯だったと思う。
四十九日が過ぎたころ、近所の人が来て「もう私も歳だから耕せなくなった」と言ってきた。どんなことかと聞いたら、これまでずっと父の田んぼや畑が荒れないように除草し手入れをしてくれていたそうだ。肥料代やトラクターのメンテナンス代や、燃料費、ちょっとしたねぎらい程度はもらっていたらしい。そのご厚意に感謝すると共に、申し訳ないことをしていました、すみませんと謝ると、「イヤイヤ、あんたの親父さんには大概世話になったのだから、そのくらいはせんば」とおっしゃった。
名寄帳をとって、うちの畑や農地がどこにどれだけあるのかを確認してまわった。雑草が生えてきており背丈ほど高くなっているところもある。残されたトラクターと強力な4サイクルエンジンが付いたハンマーヘッドという草刈り機と耕運機。それを使い、その農地を今度は私が耕す番となった。トラクターの運転や操作方法をユーチューブで勉強し、草刈り機の操作は農機具店の店主に教わった。クラッチが付いていて、マニュアルで自動車を運転できる人間であればすぐにコツを覚えられるが、オートマ限定免許しか持っていない人には難しいのではないかと思った。
農地まで草刈り機を運ぶために、小さな軽トラックを買った。草刈り機を軽トラックに載せるにはオートブリッジ(アルミ製のハシゴに似たもの)を使う。重い草刈り機を荷台に上げるのは結構難しい。載せたあとにブリッジを収納するスペースを考えて積み込まないといけないからだ。そのスペースを作るのはなかなか難しいので、積んだり降ろしたりを数回繰り返す。ようやく農機具を荷台に積み込み、スタックしないように慎重にあぜ道を走る。農地に着いたらそれを降ろして草を刈る。農地の地面は柔らかく水平が取りにくいので、降ろす方が難しい。そして、周りの田畑のように草をキレイに刈るのはもっと難しい。
刈残しがあったらそこは軍手をして鎌を持って手作業。最後に除草剤。暑いから、早起きして夜明けと共に草を刈る。終わったら草刈り機を水で洗いガソリンを満タンにする。シャワーを浴びてクーラーの効いたリビングで、氷をグラスに入れ麦茶を飲む。(さすがに昼間からビールは飲まない)やってみたら結構な運動量だ。
もうその日は何もできないほどクタクタになる。今年に入ってから、休みの日は農地の手入ればかりやっている。これでいいのだ。父と同じ景色を見て、同じことをやって、同じ土の匂いを嗅いでいるわけだ。まるで、父と対話をしているような感覚になることもある。大してできなかった親孝行を今ようやくしているのかもしれない。
必要に迫られて購入した軽トラックもマニュアルシフトの操作感が懐かしく、どこに行っても駐車スペースに困らない。カラーリングも流行りのグレー。660ccのエンジントルクは小さいが、小気味良く吹け上がりキビキビと走る。ABSやプリセーフティ(衝突防止装置)、LEDだって標準装備。乗り心地だって案外いいし、軽トラのカスタムパーツだってネットでみると山ほどある。最近、周りの人から「なし軽トラにの乗いよっとね?」ってよく聞かれるが、これがその所以である。