つるちゃんからの手紙 9月号(令和元年9月号)
つるちゃんからの手紙 令和元年 9月号
大学に入ったころの話だ。入学試験は東京で受験したので、東北に足を踏み入れるのは、はじめてだった。
駅に降りると遠くに山が見えて雪がかぶっている。寮へ行こうと人に道を訊くが、言葉が訛っていてさっぱりわからない。
足が棒になるまで歩き回って、ようやくそこに辿り着いた。築50年は経った木造二階建ての学生寮。私の部屋は6畳一間。ニクロム線が2つの電気ストーブ一つとありったけの着替えをボストンバッグと紙袋へ積み込み、そこへ移り住み込んだ。
北海道から来た隣人が、その電気ストーブを指さしてこういった。「キミ、暖房がこれしかないのか、マジで凍死するぞ!」それほど東北の冬は厳しかった。しかし、心は晴れわたっていた。「歯医者になれるぞ」、と道が開けた気分であった。
その学生寮は、想像していたより、遥かに厳しかった。
でかい声で、上級生に会ったら「こんにちは!」と言わされる。上級生と離れる時は「失礼します!」とまた、大声で言わされる。上級生は一年生を完全に無視。相槌もうってくれない。毎日のミーティングでは自己紹介をさせられる。決められた順番で、ちゃんと背筋と指先をのばして、直立不動の姿勢、大声で言わないと、めちゃくちゃ叱られる。それも半端ない勢いだ。
上級生たちは挨拶に応えてくれないのに、一年生の挨拶が気に入らないと、叱る。寮の赤電話は3回以内に取れ、外出するときは名札を不在にしろ、時間に遅れるな、試験の時は資料を作れ、留年するな、そういうことを先輩に刷り込まれる。
そんな具合だったので、一年生同士は入寮した日から、全員で先輩の理不尽なしごきに立ち向かうため一致団結する。毎晩、誰かの部屋に集まって、どうやってあの先輩たちの鼻をへし折ってやろうかと、みんなで画策した。
その反対に規律が厳しいと、良いこともあった。寮の中はいつもキレイであった。古い建物であったが、廊下、階段、玄関は、いつもピカピカだった。誰もが言われてもいないのに、掃除をする。靴はきちんと下駄箱にいれる。トイレの履物はいつもキレイに並べる。便器もいつもピカピカだったし、風呂も決められた時間、譲り合って入る。食事は残さず食べ、食器は自分でキレイに洗って拭き上げ食器棚に戻しておく。寮母さんには誰もが優しく接し、進んでなんでも手伝った。上級生の厳しさが、共同生活のルールを理解し、人としてのマナーを、当たり前のように身に着けていく。
今であれば、こういった教育のやり方は「パワハラ」だと片づけられるかもしれないが、当時の大学の学生寮はどこもこういったものであったと私は思う。
もちろん、学内でもこの寮は有名であった。入学式が終わって、クラブ入部の勧誘の時には、多くの先輩から勧誘された。「あの寮の寮生かい?ぜひうちのクラブに入ってくれないか」「挨拶と返事がいいからね、寮生は」「学祭や体育祭で進んでやってくれるのは、あの寮生だけ」「主将になるのは寮生と決まっている」寮生活で叩き込まれたことは当然、歯科医師になってからも十分に役に立っている。
私が大学病院時代にはやたら上司に可愛がっていただいたのは、この時叩き込まれた挨拶と返事のおかげだと思っている。
大学病院の医局に入ると、同じ大学の出身者や、同じクラブの後輩だけが依怙贔屓されると聞かされていたが、私の場合はそんなことは全くなかった。他大学出身であったので、冷や飯を食わされて仕方がない立場であったが、上司から、大きな仕事を任されたこともあったし、貴重な症例の発表の機会を頂いたこともあった。
人生で大事なことは挨拶と返事、それしかない。これを馬鹿にしないで、感じ良く、心を込めて行うかで、人がうける印象は全く変わってくる。これは、昔も今も変わらない事実だと思っている。
寮でしごかれた上級生を恨んでいるかというとその逆だ。今の自分は彼らのおかげであると本当に思っていて、心の底から感謝している。これはお金で買えない貴重な体験だったと思っている。